『きらきら☆スタディー』に登場する国際数学オリンピック (IMO) の問題について

この記事は東京大学きらら同好会 Advent Calendar 2023の21日目の記事です。記事と言うほどの内容ではなく、メモと言った方が近いような気がしますが...。

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20日目の記事は、Asamaさんによる、「『文学少女』きらら作品をガチ構想する」です。14巻168話の構想とのことで、ガチ度合いが伝わってきます。

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22日目の記事は、現きらら同好会会長のポリアネスさんの、合同誌micare 2.5への寄稿作です。

utkiraracircle.hatenablog.com


『きらきら☆スタディー~絶対合格宣言~』は、2015年から2018年にかけて『まんがタイムきらら』で連載された、華々つぼみによる漫画です。主人公の美崎みさき真零まれいが、その幼馴染の間城ましろみちると同じ大学に通うために、受験勉強をする部活「絶対ごうかくラブ」での活動を通して、「赤門大学」を目指す、というストーリーです。

『きらきら☆スタディー』の単行本第2巻には、次のようなエピソードが収録されています。

真零は苦手な数学の教えを乞うために、ごうかくラブの面々と、学校に存在するらしい「数学研究会」での「武者修行」に向かう。実は数研はすでに解散していたが、一同は、かつて数研が活動していた部室で勉強していた、数研OGの岩貞いわさだ一樹いつきと出会う。

さて、このエピソードには、一樹がかつての数研の活動を回想するシーンが登場します。

りら さんのウェブサイトより

一見なんてことのないように見えますが、一部の人間は二度見してしまうこと間違いなしでしょう。3つ目のコマでは明らかに、LTE (Lifting the Exponent) の補題を利用しています。この補題は、IMOの日本代表を目指すレベルの数オリプレイヤーには良く知られていますが、逆に数オリ経験者以外にはなかなか知られていないだろうと思われます。

p2 でない素数とする。もし x-yp の倍数であり、かつ x, y がともに p の倍数でなければ、


v_p (x^n-y^n) = v_p (x-y) + v_p (n)


が成り立つ。

ここで、整数 k に対して、v_p(k) は「kp で最大何回割り切れるか」を表す。

実は、これらのコマに描かれているのは、IMO及びその候補問題 (SLP; shortlist problems) に登場した問題の解法の一部です。幾何不等式の問題に登場する点の名前がIMOでの出題から変更されている*1ことから、この黒板の描写は「高校数学の美しい物語」の記述を引用したものであることが推測できます。引用元は、IMO 1991 P1

三角形 ABC の内心を IAIBC の交点を PBICA の交点を QCIAB の交点を R とおくとき,


\displaystyle \frac{1}{4} < \frac{AI \cdot BI \cdot CI}{AP \cdot BQ \cdot CR} \le \frac{8}{27}


を証明せよ。

の解法を解説した記事と、LTEの補題について解説し、その練習問題としてIMO 1991 SLP P18

N = 1990^{1991^{1992}} + 1992^{1991^{1990}}1991 で最大何回割り切れるか求めよ。

とその解法を紹介している記事の2つです。

1つ目の記事には、引用元となっていることが非常に分かりやすい図が登場します。等しい角度を表す記号が一致しています。

「高校数学の美しい物語」最初期の記事だけあって、図に手作り感を感じますね。

問題の意味

作中にIMOの問題が登場する事実には、すでに気づかれていた方がいました*2。また、これらの問題の解法や、LTE補題の証明については、私がせずとも様々な場所で解説されています*3

独自性を出したいし、数学オリンピック経験者じゃないと書けなそうなことを書きたいので、「なぜ多数あるIMOの問題からこれらの問題が選ばれたのか?」について考えてみました (TL;DR 分かりませんでした)。

1991

まず目立つのはこれらの問題がともに1991年のIMOに関わる問題だということです。作者の華々つぼみ氏にとって思い入れがある年なのか?と思いましたが、どうやら華々つぼみ氏は1992年生まれの方のようなので*4、ライフイベントがあったとかではなさそうです。偶然でしょうか。

教育的効果

もう1つこれらの問題の共通点として、「数オリ頻出のテクニックの例題としてよく使われる」ことが挙げられると思います。両方とも、解くために頻出のテクニック (LTE補題とRavi変換) の利用が必要ですが、利用してしまえば問題が簡単になる (が、あまりに自明にはならない) 問題ですから、正しくテクニックを使えるかの確認に便利です。ですから、数研の活動でこれらの問題を扱うことは、非常に理に適っていると言えるでしょう。

ただ、作者がここまで考えてこれらの問題を選んだのかと言われると微妙なところです。そもそも、「高校数学の美しい物語」は教育を目的としたウェブサイトであるため、前述の特徴を持った問題が掲載されるのは当然ともいえます。

わからん

他にも「『高校数学の美しい物語』での公開日時が連続していたのか?」(公開はそれぞれ2014年4月と12月で全然連続していない) とか「漫画の原稿を書いていた時にトップページにあったのか?」(連載は2016年9月号なのでそうとは考えづらい) とか考えてみたけど納得いく説明は見つからず。前回のチェス記事に続いてまたオチのない記事になってしまった!!:onakagadetenai:

*1:元々のIMOの問題では、三角形の角二等分線と辺の交点はA^\prime, B^\prime, C^\primeという名前になっている

*2:数学オリンピックレベル:いわめも:SSブログ

*3:例: 「LTEの補題 - 数学徘徊記

*4:http://atelier10colors.blog.fc2.com/blog-entry-26.html

『ご注文はうさぎですか?』に登場するチェスの局面について

この記事は東京大学きらら同好会 Advent Calendar 2023の16日目の記事です。

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15日目の記事はピザまんさんの「『てくてくっ!秘密リサーチ』1p漫画」です。迫力があるそうです。

17日目の記事はふぁぼんさんの「アニメ批評同人誌『ブラインド』感想」になる予定です。後述の通り、この文章は、ふぁぼんさんの過去の記事に影響を受けて書かれたものです。

また、この記事はFreddie Hand (@Puzzle_Maestro)とdoppio (@5the4th8withU)の2人の協力を得て書かれています。Freddieはチノ - ティッピー戦の局面について意見をくれ、より現実的な局面について一緒に考えてくれました。doppioはチェス経験者としてこの記事をチェックしてくれ、また千夜 - チノ戦がどのように進行したかの可能性についていろいろと提案を行ってくれました。2人ともありがとう。

はじめに

私の趣味の1つにボードゲームの大会の観戦があります。藤井8冠の影響で将棋が世間を席巻していますが、世界にはほかにもプロレベルで行われているボードゲームがたくさんあります。バックギャモンやポーカーなどもありますが、やっぱり世界的に有名なボードゲームといったらチェスでしょう!

さて、チェスは『ご注文はうさぎですか?』においてチノの趣味として連載初期から登場します。最近では、チノのチェス仲間としてフユが登場し、2人の対戦にフィーチャーしたエピソードが描かれたり*1、キャラソンに登場したりしています。ここで1つの自然な疑問が生じます: 作中の対局シーンにおいて、彼女たちはどのような手を指し、どのような局面に相対しているのでしょうか?

ということで、『ご注文はうさぎですか?』に登場する、局面が想像できる程度にチェスの盤面がはっきり描かれたシーンについて考えてみつつ、ついでに関連する話題について書いてみました。

この記事はふぁぼん氏によるMicare vol. 1中の記事「まちカドまぞく vs. ウクライナ語警察」の影響を受けて執筆が開始されました。

yuyusuki.hatenablog.com

私はこの記事のような、作品の凄く細かい点の検証を見るのが好きなのです。自分でこういうことをやるなら何があるかなあと思い、チェスを思いつきました。

なお著者はチェスプレイヤーやチェス用語の知識には自信がありますが、肝心のチェスそのものの技量は初心者レベルです。ふぁぼん氏のウクライナ語力よりも、私のチェス力の方が、明らかにかなり低いです。間違いを含む可能性がございますので、ご了承ください。

5分でわかるチェス用語101

チェス用語や、チェスのピースの位置や動きを表すのに用いられる代数的表記法(algebraic notation)について、この記事に登場するものに限って軽く説明しておきます。

マス目の表記

チェス盤のマス目には、白番(先手)から見て左下をa1とし、以下のように名前がついています。


用語

アルファベットで表記されるタテ列のことを「ファイル」、数字で表記されるヨコ列のことを「ランク」といいます。「eファイル」と言ったらe1からe8までの8マスのことを、「ファーストランク」と言ったらa1からh1までの8マスのことを指します。

序盤、中盤、終盤のことをそれぞれ「オープニング」「ミドルゲーム」「エンドゲーム」と言います。「リザイン」は投了のことです。

ピースの動きの表記

  • チェスにおける駒 (ピース) の動きは、[駒の種類] [動かす先] と表します。
    • [駒の種類] は基本的にピース名の1文字目です。キングがK、クイーンがQ、ルークがR、ビショップがBで、ナイトだけはキングとかぶってしまうのでNです。例えば、「Qd3」はクイーンがd3に動いたという意味です。
    • ポーンだけが例外的で、駒の種類には何も入りません。「d5」はポーンがd5に動いたという意味です。
  • 「x」は相手の何らかのピースを取ったことを意味します。
    • 例えば「Rxc8」は「ルークがc8に動き、相手のピースを取った」ことを表します。
    • ポーンがピースを取るときは、ポーンが元々あったマスのファイルも表記します。「cxd4」は「cファイルにあったポーンがd4に動き相手のピースを取った」という意味です。
  • 「+」はチェック(王手)を表します。
  • 「O-O」はキングサイド・キャスリング(ルークとキングを同時に動かす動き)です。
  • 将棋と違い、白番と黒番が1回ずつ駒を動かすことがチェスにおける「1手」です。例えば「32. Kg1 Nxf3+」で「32手目に白がキングをg1に動かし、黒がナイトをf3に動かし、白のコマを取り、チェックした」という意味です。

いや、0から始めて5分ではわからないだろ.... とりあえず、日本語のレファレンスとして、Wikipedia「棋譜」を挙げておきます。

チェス描写とその解説

ハンガリーとチェス

しょっぱなから余談です。

原作に初期から登場する、チェスができる温水プールのモデルが、ブダペストにあるセーチェーニ温泉であることは広く知られていると思われます。そんな施設があることから推測できるように、ハンガリーはチェスがかなり強い国です。

チェス・オリンピアード (国別対抗戦) でソ連のチームに勝ったことがあるチームは1978年のハンガリーチームだけ、という珍記録が残っています。そんな1978年のチームのエースだったラヨス・ポルティッシュ (Portisch Lajos) や、女性として初めて世界ランクトップ10に入ったユディット・ポルガー (Polgár Judit)、2004年世界選手権で惜しくも敗れたペーテル・レコ (Lékó Péter)、独創的な序盤戦術で知られるリシャルド・ラポルト (Rapport Richárd) など、多数の名プレーヤーがハンガリー出身です。

原作1巻 103ページ, 1.e4 e5

オープン・ゲームと呼ばれる出だしです。将棋で言えば☗2六歩☖8四歩みたいなとても普通の出だしで、プロレベルの対戦では2番目に多い立ち上がりです。ちなみに最も多いのは 1.e4 c5 (シシリアン)。

ところで、フィクションにチェスが登場するとき、チェス盤の向きが間違っていることがあります。a1が黒マスになるのが正しい向きですが、原作・アニメともに正しい向きになっています。

アニメ版1期8羽 08:16, 08:19 *2, チノ - ティッピー戦 (どちらかがリザイン)

©Koi・芳文社/ご注文は製作委員会ですか?

ティッピーの取った駒(BBP)とhファイルが映っている絵と、チノの頭に右下が隠れているがチノがとった駒(NPP)と大部分のピースの位置が分かる絵が登場します。g8に白のピースがあるなど、現実の対局では現れそうにもない局面ですね。FIDEレーティング2200くらいの知り合いにこのカットを見せたら、”Lol this looks like a nonsensical position”と即答されました。しかしこの結論では面白くないので、この描写に近い終局図を考えてみましょう。

  • 流石にこのミドルゲームっぽい局面でg8のピースが白の駒だというのは現実的でない。
  • 黒のポーンの数を合わせるためには、見えない位置に黒のポーンが4つあることになるが、流石にそれは考えづらいので、黒のa, bポーンが残っていると考える方が自然だろう。
  • 白がマテリアルダウン*3を回復する方法が、黒のf6のピースがキングで、これをフォーク*4するくらいしかなさそう。しかし、この序中盤でf6までキングが出てくるとは考えづらい。f6にはクイーンがあるとし、マテリアルはイーブンと考える方が自然に思える。
  • c4とe4に白のポーンがある。マローツィ・バインド*5風だが、黒のcポーンは残っているので関係ないか。
  • f7に黒のポーン、g7に黒のポーンでない何かという配置から黒はビショップをg7にフィアンケット*6したのだろう。
  • 白のナイトがd5にあり、c6に黒のポーンがある。白はd5のナイトをタダで取られるとヒドい。しかしピン*7で取れなくなっている等でもなさそう。実はc6のポーンはc5とかc7にあったと考えれば一応説明がつくのでそれでどうか。

というわけで、アニメでの描写にある程度近い終局図の可能性の一例として、以下のポジションを構成してみました。

図1

白優勢の局面。図1から1.Nd5とすると黒のクイーンは狭く、不用意な位置に逃げるとa1のルークやe7のキングとフォークされてしまう。フォークを避けながらクイーンを逃がす方法は...Qd6 2.Nf5 Qf8しかない。

図2

ここで3.Rd3 (図2) が分かりやすい。dファイルにプレッシャーをかけて、4.Nde7+ Kh7 5.Nxc8 Rxc8 6.Rxd7等でd7のナイトを得するのと、e2のビショップの効きを開け、4.Nxc7 Rb8 5.Bxa7 のRをトラップする両狙いがある。黒は純粋な駒損が避けられない。

ところで、このシーンでのティッピーのセリフ「いい勝負じゃった」の割に、ゲームはミドルゲームで急に終局してしまっているように見えます。エンドゲームの盤面は駒の数が少なく、演出上見栄えが悪いということなのでしょうか。

原作1巻 104ページ, 千夜「初めてだけど将棋みたいなものでしょ?」

よく言われる話ではありますが、実際どうなんでしょうね?羽生善治九段が一時期チェス日本一レベルだった、という話があります。しかし、特にエンドゲームをはじめとして、結構感覚が違うような気もします。チェスの駒はゲームが進むにつれどんどん減っていくので、一手あたりの価値が非常に大きいです。

アニメ版1期8羽 08:51, 千夜(白)の1.c3?!

©Koi・芳文社/ご注文は製作委員会ですか?

千夜の初手はなんとc3 (サラゴサ・オープニング)。これは基本的に指されることのない手です。手持ちのデータベースでは400万のうち882ゲームしかヒットしませんでした。

指されることが稀とはいえ、悪手というわけではありません。2.d4から「ロンドン・システム」への合流などを目指せば立派な序盤です。ただし、取りうる戦術の含みは狭くなります。

千夜は将棋の心得がありますから、ポーンは最初だけ2マス進められることをを知らなかったか、手癖で角道を開ける☗7六歩に似た手を指したのかもしれません。千夜は振り党らしい*8ですからね。

あるいは挑発の可能性もあります。変則的な初手を指した相手を咎めようと頑張りすぎた手を逆用する心理的な戦術です。千夜ならやりかねない?脚本の人そこまで...

原作1巻 107ページ / アニメ版1期8羽 10:50, ココア「千夜ちゃんそこでチェストだよ!」千夜「チェックメイトって言いたいの?」

「王手をかける」という慣用句が将棋の王手の実態と違う(かけるだけなら持ち駒を王の前に放り込めばよい)のと同様に、チェスを知らない人によくある誤解として、チェックメイトを「王手」と同じ意味で使う、というのがありますよね。「王手」に対応するのは正しくは「チェック」です。適当にちょっかいを出している感が出ている。

原作1巻 107ページ, チノ(白)のピースの配置がf2, g2, h3, Kg1

よくあるパターンです。チノはキングサイド・キャスリングをしていて、その後例えば千夜からの後々の...Bg4を防ぐためにh3とした場合などが考えられます。

本当に様々な進行が考えられますが、そのごく一例として、図3で示す「ルイ・ロペス」と呼ばれるとても有名な定跡の進行があります。

図3

1.e4 e5 2.Nf3 Nc6 3.Bb5 a6 4.Ba4 Nf6 5.O-O Be7 6.Re1 b5 7.Bb3 d6 8.c3 (次にd4としたい) O-O 9.h3 (先に9.d4とすると...Bg4でd4のポーンを支えるf3のナイトにプレッシャーがかかるため、d4を安定させる意味)

アニメ版1期8羽 10:54, チノ(黒)のピースの配置がb7, Ra8, Nb8, Qd8でここからナイトを動かす

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原作とは違いチノは黒番です。チノの方が上級なので先手を譲っているこちらの方が自然ですね。なお、オッズ・ゲーム*9の場合はこの限りではありません。局面としては、黒からの早いa4やa5, axb5等が入っているようですが、これだけでは絞り切れないところです。

アニメ版1期8羽 11:01, 千夜(白)がクイーンをファーストランクからサードランクへ動かす

©Koi・芳文社/ご注文は製作委員会ですか?

おおよそフォースランクまで描かれていますが、黒のaポーンが見えません。1つ前の場面でのチノのポジションとの整合性を取るならば、a4やa5よりもaxb5が入っていた可能性が高いと言えるでしょう。例えば、チノは基本に忠実に、定跡形にもよく出てくるa6*10としていたが、マテリアルアップが見込めるようになったなどの理由で、ダブルポーンの悪形*11を承知でaxb5とした、というシナリオは考えられます。

アニメ版1期8羽 11:15, 千夜 - チノ戦のエンドゲーム

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盤面の右下と右上を除くほとんど全体が写っています。直前のシーンには描かれていない、盤面奥の方にあるフォースランク・フィフスランクのポーンが描かれています。......一旦シーン間の整合性のことは忘れることにしましょう。

見えない位置に両方のキングがあることから、多分クイーンが交換されているのでしょう。エンドゲームの局面のようです。エンドゲームなら非合法手を指しているとかでなければどんな配置でも多少は現実的な局面でしょうね。再現するとしたら、例えばこんな感じでしょうか。

図4

黒がマテリアルアップの上に、白のルークは使いづらい位置にあり、どちらの手番だとしても黒優勢です。結局このゲームはチノが制することになり、ココアがチノを「お姉ちゃん」と呼ぶことになった、というオチにも整合しています。

ただこれだと、チェスの経験があまりないはずの千夜の方がティッピーより善戦した/粘ったことになってしまいますよね...?これなら、ティッピー戦の終局図もエンドゲームの局面にした方が良かったような気が。

原作8巻 61ページ, フユ - スパの客戦 (黒リザイン)

作品全体を通して最もはっきりピースの配置が描かれている場面です。おかげで簡単に元ネタにたどり着くことができました。これは1997年に行われた、当時世界チャンピオンのガルリ・カスパロフと、IBM社が開発したコンピューターのディープ・ブルーの間の対戦の1つ(第2マッチ第1ゲーム)の終局図です。

図5

世界でもっとも有名なチェスの試合だと思われます。フユはカスパロフ側を持っています。「わっ強い」*12どころの話ではありません!

黒はマテリアルアップではありますが、白はf, gファイルのパスト・ポーン*13がプロモーション*14目前です。2つのポーンはお互いを守りあって安定しているので、黒は大きな代償を支払うことなくプロモーションを避けることができません。リザイン仕方なしです。

なお、フユはこのシーンで「チェックメイト」と言っていますが、このポジションはチェックメイトではありません。通常のチェスのゲームは、負けている側(または引き分けを提案する側)が相手に握手を求め、相手側がそれに応じることで終了します。また、勝敗が決まる場合、チェックメイトになるよりも前に、局面が大差になった時点で終局することがほとんどです。

それにもかかわらず、作品中のゲームの多くは「チェックメイト」のセリフで終局しています。*15ただ、これは演出上仕方がないところなのかもしれません。無言で握手を求めるというのでは若干画が地味ですからね。

おわりに

チェス描写にはどうせ全部何か元ネタがあるだろうから、それについて語ろう、と思って見切り発車で執筆を始めたものの、残念ながら、アニメ版は別にそんな訳ではなかったようです。ただ、原作での描写の方は、ポジションに限れば結構妥当な物になっているみたいですね。最後に触れた、カスパロフvsディープ・ブルーの有名なゲームが登場するという事実は、シンプルに面白い豆知識なのではないでしょうか。

*1:例えば、原作10巻第4話「チェスマッチカフェチェックオレ」

*2:タイムスタンプはすべてAmazon Prime Videoのもの

*3:相手の方が強い駒を盤上に残していること。将棋で言う「駒得」だが、将棋と違って取った駒を打ち込むことができないので、チェスにおける価値は高い。

*4:2つ以上の駒を同時に取れるようにすること。将棋で言う「両取り」。

*5:ハンガリーのゲーザ・マローツィ(Maróczy Géza)の名前を取ったポーンの配置。英語圏のプレイヤーは揃いも揃ってこれを「マロクシー・バインド」と発音する。ハンガリー語が好きなので悲しい。

*6:自陣のビショップをb2, b7, g2, g7のどれかに配置し、中央に効かす事。

*7:ある駒を動かすと他の強い駒やキングが取られてしまうため動かせない状況のこと。将棋で言う「準王手飛車」はこれの一種と言える。

*8:原作10巻36ページのココアのセリフ「いざ勝負!千夜ちゃんとの特訓の成果見せてあげる!直伝の振り飛車と美濃囲いを破れるかな!?」

*9:対局者間の実力差を埋めるために、上級者側のピースが少ない状態で始めるゲーム。将棋で言う「駒落ち戦」。

*10:例えば1.e4 c5 2.Nf3 d6 3.d4 cxd4 4.Nxd4 Nf6 5.Nc3 a6 (ナイドルフ・バリエーション)。意図は次のb5からの盤面の空間の確保など。

*11:同一ファイルに同じ色のポーンが2つ以上並ぶこと。後ろにあるポーンの動きが制限されるなどのデメリットがある。

*12:同じページのチノのセリフ

*13:相手のポーンに邪魔されないで進めるポーン

*14:相手陣最奥までポーンが侵入し、より強いピースに成ること

*15:ほかに原作10巻 32ページ、同 37ページなど